仕事のおつきあいや自己啓発的な会合やパーティ的な催しがあります。
自分はそういう場が嫌いですが、たまに断れずに出席する時があります。
そんな時。
自信満々の成功者オーラ出しまくりの人に会うことがあります。
- 俺のすることに間違いはない。
- 俺に失敗なんかありえない。
- 挫折なんて、俺の辞書には存在しない。
そんな感じで、表情・態度・言葉の端々に自信と野心がほとばしるお話を、熱く語っていただけたりします。
でも、・・ごめんなさい・・正直、苦痛です。
いちおう、「はーー。凄いですね。」とか相槌をうって話をあわせてはいますが、心の中では、どうやってこの場から逃げようかと考えていたりするわけです。(笑)
失礼とは思うのですけどね。
いかんともしがたいです。
もちろん、最初は、ちゃんと話を聞きます。
でも、途中で、自分にとって「尊敬(リスペクト)すべき人」に思えなくなってきたら、もう無理です。
自分の経験から。
- お金持ちである。
- 社会的に高い地位についている
こういうことと、自分が「尊敬(リスペクト)すべき人」だと思えること間に相関性はありません。
この人はすごいと思ってつきあってみたら、「ゲス」だったり「いやらしい考え」とか「差別的な考え」をもっててショックをうけた・・というような経験を何十年にもわたってやってきた蓄積から、言い切れると思ってます。
経験的に。
うまく行っている時に人の本質はわからないことは知ってます。
本質がゲスな人でも、余裕があるときは良い人を装えます。
でも。
躓いたとき。
失敗とか。
挫折とか。
マイナスの局面になった時に本性が現れます。
そんなときどうなるか?
実は本人ですら、そうなってみないとわからなかったりするのです。
自分もそうでしたから・・。
わかってしまえば治す努力はできます。
でも、自分の本性がわからないと、治しようがないわけです。
だから、社会的にダメージの少ない若いときに「失敗や挫折した時の自分の本性を知らないできた」人というのは、とても危うい存在だと思うのですね。
失敗や挫折は、肉体的・精神的な痛みも同時に自分にもたらします。
これも、経験しないとわかりません。
特に心の痛みはね。
悲しんでいる誰か。
落ち込んでいる誰か。
そいういう人がいると「がんばれよ」とか「大丈夫だよ」なんて言葉をかける程度のことはだれでもできます。
そうすると、優しい心遣いができるつもりにはなれます。
でも、自分の経験だと。
そういうときに、なんとなく「がんばれ」とか「大丈夫」なんて声をかけられると、その「がんばれ」に余計傷ついたり、無責任な「大丈夫」に怒りがこみ上げたりするときもありました。
そんな経験をしてからは。
何もせず放っておいてあげる方が優しいときもあることを学ぶことができました。
自分は失敗や挫折を経験して、少し「優しい人」になれたと思ってます。
だから。
失敗も挫折も経験したことがない。
つまり、それに伴う「身体の痛み」も「心の痛み」も経験したことがない。
そんな人間が「優しい」わけがないと思います。
正直。
人として、すごい薄っぺらだと思います。
そういう人を尊敬(リスペクト)はできないですよ。
失敗や挫折を経験していない人は、本当に尊敬すべき人にはなれない。
自分はそう信じてます。
とはいえ。
失敗や挫折なんてしようと思ってできるものではないです。
失敗や挫折の経験ができること。
そしてそれを乗り越える機会を与えられること。
それ自体も運なんでしょうね。
失敗も挫折もなくうまくいっているときは、それが最上であるように思うのですけど、実は、本物になれるチャンスにまだ巡り合っていないともいえるわけです。
だから「失敗した」とか「挫折をあじわった」というとき。
正直、つらいですし、悲しいですけど。
それでも。
そこをなんとか乗り切ることができたら、一段「本物」に近づける機会が与えられたんだと、あとで思える可能性はあるということなんですよね。
人生って深いよなあ。
自分なんて、特別な能力もなければ、お金も地位もない「凡人中の凡人」なんですけど、それでも、そんなことを思えるようになるわけだから、60年以上生きるというというのも悪いことではないなと思ったりもするわけです。
うん。